このイヤリングは七宝焼のものです。
大変愛用していましたが、金属は金色の光でしたけれど、
メッキも剥げてしまい今では銀色に変色しています。
イヤリングの留め金もねじ式の古いままです。
当時はこれをつけて話をしていると首の辺りに
お喋り好調!…とばかりにキラキラ揺れて
ちょいちょいと周りの皮膚にも触れながら
お喋りの応援をしてくれるようでした。
ゆらゆらするイヤリングは今では珍しくもありませんが、
当時は目新しくて私にとっては大事なものでした。
この赤い色も気に入っていました。
それが、35年前のことでした。夫がロサンゼルス・UCLAで在外研究員として約1年間の勤務についていました。
本来は家族揃って転勤について行きたかったのですが、子どもたちの事情も、そして実父の健康も気になることがあり、夫が一人でアメリカに渡航し勤務することになったのです。
そんな年の夏休みに、私たち留守組が約1か月の夏休み期間を利用してアメリカに行くことにしました。夫は滞在期間をいろいろと工夫し考案してあちらこちらへと旅に連れ出してくれました。
日頃、夫は旅など趣味もなく好んでいなかったのですが、子どものため、家族のためと動いてくれました。
メキシコ・シーワールド、ナッツベリーファーム、グランドキャニオン、ディズニーランド、ラスベガス、チャイニーズシアター、それからスミソニアン博物館など今や、都市名も出てこない有様ですがそんな体験を多くさせてもらいました。
サンタモニカの海岸では夫のボス.ケリー教授の家に招かれ海岸でのパーティーも開いてくれ歓待でした。水着着用で太平洋の大きな波と戯れて遊びました。
そしてまた、ロサンゼルスのジャパニーズビレッジではちょうど文化祭が開かれていた時期であったし日本では見られなくなった二宮金次郎の像も大層立派に建てられているという日本人学校にも行ってみました。
我が子が通う名古屋市立の小学校でPTA会長をなさっていた寺本さんが市議会議長に就かれた頃です。その市議会議員・議長の寺本さんがオープンカーに乗って手を振りながらパレードに参加していました。当時は(今も?)ロスと名古屋市は姉妹都市です。
私は大通りの真ん中に駆けて行き、寺本さんと驚きの握手をしていました。彼は私たち一家が、まさかロサンゼルスに滞在中で当地で会うとは思いもよらなかっただろうと思います。
私たちも寺本さんがこのパレードに賓客として参加しておられるとは思いもしませんでした。いち早く彼を見つけて、オープンカーに駆け寄って来る人が誰なのか見当もつかなかったことでしょう。驚きの表情を見せて、それがやがて見覚えのある人だったと分かり、輝きのお顔に変わっていたことを今でも忘れません。
このイヤリングの話をします。ビバリーヒルズで映画スターの家や超お金持ちの方々が住むという有名な街の散歩をした時の出来事でした。
地図でどこに誰が、という案内図もあり、カークダグラスの家は…、チャップリンは、?、?…など誰の家かも個人情報がどうのこうのは当時は無かったのでしょうか。案内図を片手にしての散策でした。清々した街を歩くのは気持ちが良いものでした。
それがふと耳に手を当てたら、あの大好きな七宝のイヤリングが片方だけ失くなっていたのです。
家族の皆にそのことを告げました。(まあ、仕方がないね)という応答があると思っていました。
けれど夫が「大体どの辺まであったと記憶がある?」「それなら、この辺を探そう…」と目星を付けて探すことにしてくれました。でもその辺は落ち葉がカサカサと鳴っていましたし落ち葉が掃き清められてもいないし、小さなイヤリングなど埋もれたら見つからないような所だったと思います。見つけるのは至難の業だと私が真っ先に諦めていました。
夫には何としても探し出すという気迫が感じられました。それから皆で手分けして探しました。夫の強い気持ちから、なんとあのイヤリングが見つかった!再び私の手に戻った! なんと、なんと…、探し出し見つけてくれたのでした。
20~30分は探していたと思います。本当にあの時の執念みたいな気持ちを夫に観て(人間は諦めては駄目だよ)という精神を教えてくれていたように思います。
そして大いなる夫の愛情を感じました。
1983年の夏でした。
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分厚いポケットアルバム(フエルアルバムのアメリカ版)からほんの一部の写真を、そのまま写してアップしてみました。まだたくさんのアメリカでの写真を出し惜しみ(笑)しています。
ピントも此処では合っていないことご承知ください。そのうちにまた何かのネタに託けて登場するかも知れません。
長く生きて来たな…ってふと思いました。高齢者後期なんて枠に入れられてしまいましたもの(笑)。