お盆のころ
夕暮れの買い物に寄った。「フードコートで盆踊りが始まります。ぜひご参加ください」とお店のアナウンスがあった。覗いてみた。
踊り手は浴衣に帯を締めて身を整えている。流れる民謡は盆踊りの定番、炭坑節からの始まり。奏でる音楽はテープではない。三味線、太鼓、笛のライブで賑やかに浮かれ調子。
まあ、夕方のひと時心せわしくも参加して踊っている人もだんだんに増える。暮れなずむその時間が気になり、私は踊りに参加することなしに、帰路に移ってしまったけれど…。
お盆の時期である。ご先祖様が家に帰ってくるのだ。家から遠く大規模のお墓どころに父母が眠っている。お墓まわりを整えてお墓参りして、お花とお線香を焚いた。
母は生前、父が寂しがっているから、みんながお墓参りの時期には特に早く行ってあげようね。そしてお墓参りは午前中にするのよ、と。 母の言葉は見事に生きている。
そのようにしないと気持ちが治まらないのである。母は田舎での原風景をもっている。孫や、私たち子どもに囲まれてニコニコしていたいものだと、それが幸せの姿だと信じていたし、常々話していたのだった。
我が娘も母と生活を共にした期間があったから母の姿勢や言葉がそっくり彼女の中で生きているようだ。「お墓参りをするよ」と一応知らせるのだが、ほかの誰よりも孫としての参加は多くある。おばあちゃんの言葉が孫としての娘には残っているし、また生きてもいるのだろう。
しかし、私は未来のことは、こうして欲しいということを言わないようにしている。私が居なくなった時に、将来こうあって欲しいとかどうすべきかなどと縛りたくないと思っている。言わなくても分かっているだろうとの甘えも多少あるのか…。
そんな緩やかさでいると…新しい家族が将来遠く海外に住んだりお墓に足を運べなくなったりでお墓に行けなくなったりすることだってあるだろう。たしかNHKのドキュメンタリーだったものを見たとき驚き、この先どうなるか予測も付かなくなった。
なんと誰もお参りに来なくなったお墓は取り払われて墓石を粉々に砕いて道路のゴロ石砂利石として使われたりコンクリートの工事に使われることもあるのだそうだ。お墓だった石の端くれを畏れ多くも踏んづけているとしたら?クワバラ、クワバラ…ものに感ずる。
お墓を管理する人の困り顔も見えるし、この先どうなることやら…。
こうして代々つながって行くことの限りない幸せは感じ取っているわけだけれど…。
このころ、「山の日」が新しく休日になったりしていつも行っていたスポーツクラブが遠のいている。友だちもお盆客の接待などで忙しくしている様子。最近の涼しさはもう秋になっているのかと思わせるような気配も感じさせる。夏の暑苦しさを何とかしてくれと思っていたのにこうして季節が移りつつあることは、一抹の寂しさを感ずる。
時の流れの速さを最近特に感ずる所為なのだろうか。
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