天候や波の荒さが気になっていた堂ヶ島遊覧では、無事に出航できたから、まあ恵まれていたのだと思っている。バスガイドがしきりに心配することは、富士が見えていないことだ。バスガイドの発する言葉は、ことあるたびに、「空が明るくなってきた…」、とか、「富士の頭が見えている」とか、かなり頑張って下さっているのはツアー客として、なんとも有難い気がした。堂ヶ島の天窓洞遊覧(→1)は、乗船時に雨がポツポツ降ってはいたけれど、穏やかな海で大変よかったし、昼食はオプションであったが、たっぷりとした量と旨さであったので、出発前に注文しておいて良かったと感じた。(→2)
奥石廊崎を背景に(↓) 堂ヶ崎・天窓洞遊覧(↓)ツアー客全員の記念写真は、遊覧船に乗船する前に撮ったが、下りてから出来上がった写真の注文を取られた。我々一行は一枚だけ購入して後にみんなの分を調達するつもりだ。最近のお客方は、グループならば大抵一枚の写真だけを求めるようだ。
そして次のコースは、修善寺へ。
色々な物語に登場している伊豆を代表しているお寺なのだ。お寺までの道すがら、「漱石の道」と名付けられる小道をぶらりと散策。
いかにも文学作品に取り上げられるような風情を醸していた。そして割にこの度は、自由散策としていることが多いのだと思った。
それぞれの体力や興味の程に合わせて自由にさせてもらえるところが良いなと思った。
韮山反射炉までの道のりでは、大分雲が晴れてきていた。
バスの中で、富士山が綺麗に見えてくると、私の座席の後ろ側の方が、不満そうに「もう、富士山、富士山と騒がなくなったね…」と、つぶやいておられた。
ちょうどバスガイドさんは、乗客の皆さんに熱いお茶をふるまわれるために、忙しかったとも言えるのだが…。
富士を撮ろうとすると、いつも電線が気になる。
そのうちに、川越みたいに電線の地下埋没工事で空の風景がすっきりすると好いのにと、思ったのであった。
世界遺産になった韮山反射炉の跡。
写真では見ていたが、もっと大きな背高のものとのイメージがあったのに、傍で見ると意外に小さいものなのだと感じた。また、このクロスされた鉄骨は、平成になってから設えたもので、崩れないようにとの配慮からのものであったのだ。初めからこのようにしたのではなかったと、ここに来て判ったのである。
(韮山反射炉のしおりより。)
1840年のアヘン戦争を契機に、日本では軍事力強化を目指すことになった。蘭学に通じた官僚たちによって、西洋砲術の導入、製鉄大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言した。このうち、鉄製砲を鋳造するために必要とされたのが、この反射炉であった。
反射炉は石炭などを燃料として発生させた炎と熱を炉内の天井で反射し、集中させることにより、千数百度の高温を実現し、鉄を溶かすことが可能になる。この炎と熱を反射する仕組みから「反射炉」と呼ばれたのである。