お盆である。
市民が眠る大きな墓地霊園。
亡き父母は、近くに同じように眠って居られる方々が、大勢集まっての一画で眠っているのだ。
特に寂しがり屋の母さえも淋しいことは無いように思える。
墓石には『寂静』(ジャクジョウ)と刻まれている。
…父が亡くなる前、お墓の話をしていた時に、仏教の教えでは『無』が永遠だと話してくれた。
墓石には「無」とするか、または「寂静」としたいと生前から、口にしていたことなのだった。
本当に父が亡くなった時に墓石に刻む言葉をと、姉妹から「お姉さんが決めることに異議なしだから…」と促され、迷いに迷った末に選んだ言葉は前述の通り寂静に。
静かに悟ってやすんでいます…というその言葉を刻むことによって、生きている者、遺された者の一縷の慰めでもあるように…という精いっぱいの思いから。
なくなるって、本当にみんな無くなってしまうことなんだ…と。
想像以上の、なんと寂しく哀しく辛い、空しいことなのだろうと、身に染み思い知らされた。
そんな気落ちして悲しい時に、改めてそして念入りに「無」なんて刻みたくなかった。
冷静に今思うと、「無は永遠、ここに居ることは、有り得べからざる稀なことである」ということを飲み込むことは出来る。
ここに生まれてきたことが、天から糸をたらして針の穴に通すくらいに大変稀なことなんだという(三回忌法要に説法を受けたけれど)ことを素直に受け止めている…のだけれど…。
いろいろここには書けないほどの思いも積もって、積もっている。
思いがうず高く積り、元気な人には手が届かなくなるくらいになると、天に昇れるのだと思う。
人の存在を、そのくらいに深く思って、思ってみようかと思う。
賑々しいお盆も終わった。