母が亡くなったことをお知らせせずに居りました知人が、偶然知ったとのことで、お線香をあげたいとお出かけ下さった。
あの時、親族葬として執り行ったので、訃報は事後に町内会のみにさせて頂いた。
母は12年にわたる闘病・入院生活の末に亡くなったので、母を知る方々にはご無沙汰して居ったのだった。
町内会にも属さないその方たちには、ず~っとこの世に母が息していると、せめて思っていて欲しいとのつもりもあった。
でも、そんな訳にも行かないことだし、母が元気だった頃を思い出して話題にして下さる方には、私たち子どもも会いたいと思っていた。
少し遠くの妹にも声を掛けたら喜んで集合。そしてご無沙汰だった懐かしい、Nさん親子としばし歓談できた。
母は娘たちがそれぞれ結婚したり、就職したりの…娘たちが手元から巣立っていく時期に、母自身の生き甲斐を探していた。
それは、40年あまりも前のこと。父は明治生まれの人間で、“新しがり”な人ではあったが、母が能力を生かす場を外に求めることは出来なかった。自宅でできる“保育ママ”という仕事が偶然見つかり、T市の協力メンバーになったのだった。
母自身もその資格があってのことだが、当時保育園も少なく赤ちゃんから幼稚園前の年齢までの幼児を預かって、“働くママ”に代わり“昼間のお母さん”になって手助けをしたのだった。
その仕事始めの、第1号~そういう言い方は失礼だが、そう表現するのが分かりやすい~だから、ひとしお印象深く思い出深い。当のお子さんだった方KNちゃんがお母様と連れ立ってお見えになったのだ。
当時私はもう独立して家には居なかったが、妹たちはKNちゃんの保育を傍で直に見ていたので、とても印象深かったらしい。
妹たちと、久しくお会いする機会もなかったNさん親子と、楽しく旧交を温めた。
お母様は今83歳という。むかしは教育に携わっていらしたので、ちょっと伺っただけでも尊敬してしまうようなお話が展開された。
サハリンにて8~18歳までお父様のお仕事の関係で生活していたという。そして忘れないためにもロシア語のサークルに入って今も学んでいるという。
素晴らしい心がけ!生涯学習というが、いつの年になっても学ぶという気持ちがある方に、私もあやかって行きたいと思うのだ。
そして息子さんは、ご自身の趣味?も生かされて、『旬刊旅行新聞』を出されていらっしゃる会社の役員。
「え~、良いわねぇ…あちこちお仕事も兼ねて旅ができるの!」って、旅行好きの私たちは、羨ましがることしきり。
今日の思いのほかの暑さに合わせるかのように、楽しく熱い時間をいただき、母のお陰の“めぐりあわせ”の一日となった。
by nagotu3819
| 2011-05-08 18:41
| 交友録