誕生日辺りに賑やかに咲いてくれる花は結構あれこれとあるのだけれどまず浮かぶのは酔芙蓉。
この花がなぜ気になるかと言えば、川柳の同好会で講師に迎えたWatanabe先生がこんな句を作ったということを耳にしてからだった。
さよなら舞子 角を曲がれば酔芙蓉 和尾
過去に東京文学散歩の会に所属していたころ、その会の活動ごとに会報を編集・発行していたのだが、この同好会会報誌の埋め草として、以下のようなエッセイを掲載したことがあった。
芙蓉の芳(かんば)せ
―酔芙蓉をごぞんじですか― (そよぎ)
三十年も前のことだが、五十人ほどの仲間たちと川柳の同好会を組織して楽しんでいた。川柳か俳句か五行詩かで、他流試合のような楽しみ方をしたことがあった。
そんな時期、ある俳句の会に川柳作家の和尾先生が「酔芙蓉」を詠み込んだ斬新な感覚の句を、どう評価されるかと戯れに投句されたのだという。結果はどのようだったのか聞いてはいなかったか、または覚えてはいないのか。とにかく記憶してはいない。先生の作品の中では、かなりインパクトが強いものとして私には深く印象に残り、9月になるとよくこの句が頭に浮かんでもいた。
花の名前が気になって、女性の名前は印象外だったのか思い起せなかった。しかしながら女性の名前を句に入れること自体が異例で、その句にぴったり似合う名前だと感じたはずなのに、作品を紹介したいこの時に思い出せなかった。
レイコだったかなあ。しかしレイコではちょっと固い印象だし、平凡だとも思える。彼女の名前を呼び掛けながら別れの言葉を告げて後、効果的にシーンを一転させるなんて流石に巧いと意表を突かれた。それは別離の言葉を余韻を残しながら彼女に言い放ち、翻すように身をかわした彼がふと目をあげて上を観ると酔芙蓉が咲いていたという。たったこの、十七文字の中に物語を作り出し、読み手の気持ちを波立たせるような内容を効果的に謳いあげていた。
よく短詩形ではメタファ(暗喩法)に、花の名前や色名、その他いろいろの事象を使ったりして思いを広げる効果をもたらす。この時私は酔芙蓉の花の特徴を知らなかった。でも、何か不思議な衝撃があったのだった。
そしてその句を思い出しつつも、その句の要と思える主人公の名前をやっと思い出せた。
それが前出の句であった。
さよなら舞子 角を曲がれば酔芙蓉 和尾
当時流行りでもあり、洒落た感じのこの「舞子」という名前はレイコより情緒的な雰囲気も加味され、若い美しい女性を想像できた。浪漫の香りと清廉な別れの舞台装置は完璧だった。それが危険な雰囲気の風さえ吹いてくるとなれば、選者や読者の心を遊ばせ楽しませるような、ゆとりや奥行きも感じ取れて、傑作のように思えて流石、先生だと思った。
この句がきっかけで、酔芙蓉はどんな花なのか気になりだした。「芙蓉」は薄紅色のいかにも優し気で雅やかな花の様子で、夢見る少女を思わせる咲き姿だ。そしてそれは一日限りの時間を静かに咲き競う。
母は若い頃から「芙蓉の芳せ」と幼い私たちにもよく伝わってくるような愛でかたをした。そのまま私の心にもコピーされるように、いじらしくて可愛い花だ思い込みが深くなっていった。
この話題の「酔芙蓉」は朝は真っ白い色の花なのに時刻の流れに従い、少しづつピンク色に染まっていき、夕方から翌日にかけて萎んでいく頃にはもっと濃い紅色に染まっている。
ひたすらに太陽の熱に酔い太陽を恋しいと思って染まるのか。その一日の色合いの変化は人の生きざまをなぞらえているように思うとさらに深い思いを抱かせてくれる。酔芙蓉が舞子だと取れるし、または別れた舞子ではなく新しい未来を酔芙蓉というメタファに助けを借りているのか。どちらでもよい気がする。
人生は短い。一途に努力して学び、そして遊びの中からさえも種々の教えが潜んでいるから、心して生きよと言っているように思える。酔芙蓉は純真な心で熱心に生きることと励まし、忠告しているような気もする。我が庭の酔芙蓉は、私の誕生日、9月末辺りに満開の白い花と丸く赤い萎みが満足のハーモニーを奏でる。
酔芙蓉を眺めては亡き母を想い、明日咲き揃う蕾を眺めては明日を楽しみに待っているのである。
(10年前の作品/平成19年9月1日発行28号に掲載した)
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