懐かしい人々との思い出集ということになった合同句集を久しぶりに広げてみた。たった17文字のなかに、思いも鮮やかに見えてくる。
そんなこともあった、彼女はこう表現したのね…など、あの時に見えなかったものも、または思い違いによる解釈かもしれないことまで(定かではないものも、もちろんあるが)広がりをみせてくれる。
その句集の題名は『過去たちよ』。
12巻目まで参加した句集は、2000年発行のもの、まさしく過去たちなのだ。
この句集に関しての参加者は33人で、講師の作品も出品されている。この会が発足して以来20年の月日を重ねて、私は一応区切りをつけて辞めた。
辞めたきっかけは、その2年と少し前に夫の提案により、趣味関係も高校教師もすべて区切りをつけて、単身赴任(?)をすることに応じた。それが遠地へ行く状態になった時は、友との触れあう機会――顔を突き合わせながら、楽しみながら趣味の会を盛り立てて運営してきた一人として存在していた――は、皆無に近く肉親への愛の関わりを重要視しなければならなくなったのだった。私は夫の提案を有難く思い謂わば夫の優しさに甘えたのである。
もちろん作品に取り組むことも好きだったので遠地に行っても継続は可能だった。だから2年を少し超えても投句を続けたが、その間、今までのように友だちとの交流がで出来なくなったのは仕方がないことだった。それはこの会から離れる決心を容易にもさせて、そんなに寂しく悲しいことだとは思わなかった。
友との交流が平素の生活から彩を代えた状況になることも好んでいた。それは家族とは違った上での気持ちで、所属の会が発展していくことの一助を担っている手応えや友の存在、その交流による喜び―そんな気持ちを昂揚させ、生きがいにつながっていく大事な要因だったと思う。
それが…、友だちと肉親とを天秤にかけたという結果になったのだ。慣れ親しんだ友から、特にこの会に入会をお誘いした方々には恨みごとの一つや二つ…いやもう少しあったか…、その後会うごとに言われながらも嬉しかった。申し訳なかったが、肉親からSOSを出されれば、そちらに目を向けるのは自然のことで、これは後悔をするどころか、こうした状況を作ってくれた夫に大いに感謝した。以下はその時、その頃の作品である。
「雨上がり」 そよぎ忘れもの増えて見捨てて秋の陽にいまの私 雨に濡れても歩くから学び舎の前で時計は逆戻り瞳を見ると五十年前のあの人だ友だちへと飛ばす私のアルファ波餓鬼大将は恩師でしたね ご健在奥行きが深い抽斗 なにがでるか梅雨空のもとで命の輪を思う
地を蹴って走っていまを踏み締めて青い鳥はあの人だったのかと分かり翻る思いなどなく遠花火心地よい疲労 笑いも満腹に雨は上がり落ち葉もきらり光る午後 (13/45……続く)
元同僚であった方の葬儀に参列して「ありがとう」~あふれる思いを込めて
父の性格をひと言で表すならば”一生懸命”この言葉がぴったりです。高校教師としてひたむきに働いた現役時代、カメラ片手にあちらこちらに足を運んだ後年、そして病が発覚した母を支える中 自分自身も病に倒れ、夫婦二人で送った闘病生活。父は何をするにも最後までまっすぐ、前を向き続けておりました。頼もしい背中に優しい眼差し…その面影は私の胸にしっかりと刻まれております。「もっと親孝行ができていたならば…もっと父のはなしに耳を傾け寄り添うことができていたならば…」別れを迎え、悔やむ気持ちばかりが胸にこみ上げます。それでも今は、父の頑張りを心からねぎらい、積年の感謝をこめてそっと両手を合わせます。父☆○ △□は、平成二十七年六月二十七日、行年七十七歳にて尊い生涯をとじました。心残りは、同じ病室で一緒に病と闘ってきた母のことでしょう。父が何も心配せず彼の地でゆっくり休めるよう、私がしっかりと支えてゆく所存です。生前のご厚誼を賜りました皆さまへ、深く感謝申し上げます。本日はご会葬いただき、誠にありがとうございました。略儀ながら書状にてお礼申し上げます。
(後略) 喪主 ☆○ □○ 親戚一同
☆page top☆