1年に4回の活動です。
その秋の文学散歩は我孫子界隈になりました。実施にあたり、下見に出掛け、資料を作って準備しました。
その貴重な秋の散策は、生憎の雨降りに見舞われました。
結果は、これもなかなか良かったと言えるのですが、その雨降りの朝はがっかりしました。
バス会社に契約しているので、変更をせずに実行です。
まず、子の神大黒天に詣でました。ここの神様は頼朝が脚気を患った時に柊で足をお祓いすると治ったので、腰下の疾患に霊験ありとして参詣者でにぎわったと謂われています。
別荘地として、有名な方々がこの地に集まってきました。
残っている別荘も今では少なくなりましたが、西洋史の大家村川堅固東京帝大教授の建てた旧村川別荘に立ち寄り、説明を受けました。
手賀沼に面した傾斜地に建てられた母屋は、江戸時代の我孫子宿本陣の離れを解体・移築したもので、床柱(棕櫚材)や釘隠し、繁骨(障子)、寄せ木細工とも見える卓など、なかなかのものと思いましたが、保存状態があまり良くないように見うけられました。母屋↑と、新館↓。
新館は昭和3年に建てられ、土台は鉄筋コンクリートで、フローリングは寄せ木、矩折り戸の出窓など沼がよく見えるように窓を広く取り出窓に手すりを付けていました。掃き出し口もあり、当時の生活が垣間見えます。
我孫子の街は古い部分が多く残っていて、道もせまいのです。細くなった道にマイクロバス・サイズのものではありましたが、入れないと、そこから徒歩となりました。古墳のある地区で、志賀直哉と交流のあった滝井孝作が住んでいたところには、「古墳公園下の湧水」と銘打った場所があります。
白樺文学館で館長の説明を聴きました。館長が手にしているのは、柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤らの家族が一堂に揃って記念撮影をした時の写真。こうして当時のそうそうたる面々が手賀沼を愛し、文学を極めようと努力し、新しい村づくりの民芸運動を起こしたのです。
この家は志賀直哉が書斎として建てたもの。この地区に4か所の直哉の家があり場合によってそこに籠って作品を書き、ある時は3,4年の間作品が書けずにいて、大きな犬を飼い、その犬のお陰で近所に出掛け謝るなどの付き合いができて、親しく土地の人とも円滑な付き合いができたとか。
また逸話としての館長の話に、夏目漱石が死んだので、小説が書けるようになったと、謎めいた説明もありました。
こうして、作家たちの作品や陶芸家の作品を生みだしたのは、この地、この方々の交流によっての息遣いがあったからこそかと、胸が熱くなる想いが致しました。(つづく)